浜端ヨウヘイと今の時代を生きるシンガーソングライターたち

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山崎まさよし、浜端ヨウヘイ、山下達郎、宇多田ヒカル、小田和正、家入レオ、大槻ケンヂなどと、日本には数多くのシンガーソングライターが存在しており、その数はアイドルブームである現在においても年々増えてきています。このサイトではそんなシンガーソングライターについて様々な事を真摯に考えていきたいと思います。

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本の歌謡と「シンガーソングライター」

歌謡、商業主義とシンガーソングライターの戦い

 日本においても、自作曲を自ら歌う歌手は古くからいました。作詞家&演者だった添田唖蝉坊等も広義ではシンガーソングライターといえるかも知れません。昭和5年代には演歌師の石田一松が自作自演した「酋長の娘」をヒットさせ、林伊佐緒も「出征兵士を送る歌」等を自ら作曲・歌唱しました。昭和25年代には大橋節夫が自作曲を歌いヒットしハワイアンブームの先駆となった他、昭和33年には「ロカビリー3人男」と言われた平尾昌晃も自作曲「ミヨちゃん」をヒットさせました。 昭和35年代には森繁久彌、加山雄三、荒木一郎、市川染五郎、美輪明宏といったような人気俳優が自作曲でヒットを出すというケースも出てきました。歌謡曲には古くからレコード企業とプロダクションの主導により職業作家の作った楽曲を歌手が歌うという厳格な分業システムがありましたが、彼ら歌手にも音楽家としての才能があるため、作曲能力があって、知名度も相まって自作曲をリリースすることが出来たのです。加山のケースで言うならば自らの主演作品である『ハワイの若大将』の劇中歌において自作曲がヒットした後、自作曲を多く歌うようになりました。しかしそんな加山でさえ作曲のみを自身で行って、作詞に関しては職業作詞家によるものだったため、その大半がラブソングであり歌謡曲と変わりがありません。後に登場した「シンガーソングライター」や「フォークシンガー」が、非歌謡曲や反体制歌を志向したというポイントや、「自分自身の言葉で歌にしていく」と、自己表現した歌詞にも特性があった点で異なります。また音楽的ベースも加山はグループサウンズでありますので、ロック寄りで、これも後の「シンガーソングライター」がボブ・ディランやPP&M等、アメリカのフォークソングをベースにしたものとは異なります。加山自らが「俺は俳優。歌は趣味的なもの」と語っており、この点からも、その後の「シンガーソングライター」と系統的に繋がってはいないといえます。荒木一郎は「当時では、俺だけが純粋に作詞・作曲で、しかも商業的でない。そのまんまだったんだ」と述べています。岡林信康や吉田拓郎、小室等、井上陽水らは、加山らを先達とは考えてはいません。小室哲哉等は「平尾さんとかそういうとか人たちは歌謡曲に積極的に寄りそう形で出てきたシンガーソングライターだったけど、ぼくらはその糸を切っている。彼らとは違う」「あの当時のフォークソングをはじめた連中というのは、アンチ商業主義だった」等と話しています。昭和35年代後半から登場したフォーク系シンガーソングライターの殆どは、既存の歌謡曲とはほぼ無縁の活躍から誕生した人たちなのです。

言葉がメジャーになり始めたのは

 「シンガーソングライター」という言葉が日本で認知されたのは昭和47年で、吉田拓郎のブレイクより後になってのことです。『ニューミュージック・マガジン』昭和47年5月号の記事には「いま、シンガー=ソングライターなんて騒がれてる連中のやっている事は~」という内田裕也の発言が見られ、同じく昭和47年7月に刊行された『爆発するロック』という本の中の富澤一誠とかまやつひろしの対談では、富澤が「今、話題になっているシンガー・ソングライターなんかどう思いますか」と、かまやつに質問する場面があります。昭和48年の「guts」1月号には、「昭和47年度、日本のフォーク界の大ニュース」として、「吉田拓郎、あがた森魚等のシングル盤ヒットにより、"シンガー・ソング・ライター"が日本の音楽界にクローズ・アップされた」「"シンガー・ソング・ライター"の大衆化~」といったような記事が見られます。昭和47年7月に荒井由実をデビューさせた村井邦彦は、「最初は荒井を作家として契約しましたが、シンガーソングライターの時代が徐々に変わっていくときだったので、荒井をシンガーソングライターとしてデビューさせた」と述べています。当時はまだ自作曲を歌い、さらにその曲をヒットさせることが珍しかったため、マスメディアも「シンガーソングライター」を大きく取り上げたと考えられます。「シンガーソングライター」という言葉が使われ始めたのは昭和47年より後で、それまでは特に定着した呼び名はなく、あえていえば「自作自演」という言い方をされました。

 「シンガー・ソングライター」という言葉が日本に入ってきた昭和45年代初めには、高石友也や岡林信康といったような「自作自演」のフォークシンガーが若者の支持を得ていました。ただし彼らはマイナーレーベル所属であったため、レコード自体はあまり売れておらず、歌謡界のシステムを揺らがすまでには至らありませんでした。しかし、その後の吉田拓郎や小椋佳、かぐや姫、井上陽水ら、テレビへの出演を拒否しアルバム作品の制作とコンサート活躍に重きを置く「自作自演」のフォークシンガーたちは、メガヒットを出し、また演歌や歌謡曲歌手に楽曲提供をおこなう等、長く話題を提供して世間の注目を集め、既存の芸能界に影響を及ぼすまでになりました。小室等、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるの4人が自分たちのレコード企業「フォーライフ・レコード」を設置した昭和50年には、シンガー・ソングライターによるフォークがレコード・シェアの四割近くを占有しました。こうして、借り物ではない、自分の言葉で、個性で、歌を唄う、表現する、シンガーソングライターが、若者たちの支持を勝ち得て定着していくことになりました。彼らの殆どが自ら作詞作曲した楽曲を、ギターを弾きながら歌う「ソロのフォークシンガー」であったため「シンガーソングライター=フォーク系のソロシンガー」のイメージが付きました。

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作詞作曲のハードルは高いが人気は止まらない

 一方で、当時は職業作詞家・作曲家が作るようなレベルの楽曲を歌手が容易に作れるとは思われていませんでした。前述した内田裕也発言に関しては(シンガー=ソングライターは)「ロカビリーがだんだん歌謡曲になったのと同じ。長く続かない」といったような主旨でしたし、富澤一誠とかまやつひろしの対談では、富澤が「ぼくから見ると、作詞・作曲・歌と三つのことを全部うまくやるって事は、困難じゃないかと思えるんですがねえ。だから、三つのことをそれぞれプロフェッショナルがやった方が、いいものが生まれると思うんですけど」と話しています。当事者の一人だった南こうせつ自身も「ブームが続くとは思ってなかった」と語っており、このシンガーソングライターによって興されたフォークブームは直ぐに終了するのではないかという意見もありました。しかし、才能あるシンガーソングライターが昭和45年代以降にも多く続いたために、これらのものは一過性のものではなく、メインストリームとして日本の音楽界に浸透していったということになっていったのでした。特に昭和48年頃から、五輪真弓、金延幸子、りりぃ、荒井由実、吉田美奈子、小坂明子、小坂恭子、中島みゆきらが登場した時に、彼女たちの中にはギターを演奏せずにピアノを弾いて歌うような、フォークとしての要素が全くない者がかなりいたために、彼女らを「女の人フォークシンガー」とも呼びわけにも行かず、該当する用語が見当たらなく「女の人シンガーソングライター」という言い回しが非常によく使われたとされています。これも「シンガーソングライター」という言葉の認知度を上げる要素としてかなり影響があったと考えられます。

 勿論、様々な「シンガーソングライター」を輩出した「ヤマハポピュラーソングコンテスト」の功績も非常に大きく、今日に繋がる「女の人シンガーソングライター」の草分けは、昭和47年にアルバムデビューした金延幸子、五輪真弓、りりぃあたりで、「女の人シンガーソングライター」による最初の大ヒット曲はヤマハポプコン出身の小坂明子が昭和48年12月に出した「あなた」だと言われています。シンガー・ソングライターの台頭は、職業作詞家・作曲家の安定を揺るがす存在になっていきます。また歌謡曲歌手にも大きな影響をあたえました。昭和55年より後には、シンガーソングライターの影響を受けた職業作詞家・作曲家が出てくるようになりました。昭和45年代も半ばになると、フォークという言葉ではフォローできない音楽がたくさん出てきて、フォークはニューミュージックという呼び方に吸収されていきました。今の音楽界は、シンガーソングライターたちが成し遂げた変革の上に成り立っています。

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アンチテーゼから語感だけの産物へ

 当初は「歌謡曲のアンチテーゼ」としての意味が含まれていた「シンガーソングライター」という言葉ですが、ニューミュージックが、フォークより上に歌謡曲との区別がつき辛いこともあって、昭和45年代後半には、歌謡曲側の自作自演歌手も含め、自ら書いた歌を自ら歌う人はジャンルに拘らず全員「シンガーソングライター」と呼ぶようになりました。 所ジョージは昭和52年のデビュー時から"シンガーソング・コメディアン"と名乗り、昭和56年の週刊誌は、俳優・寺尾聰の大ヒットを"大人の味を持ったシンガーソングライター"、『男道』という自作曲のレコードを出したプロ野球選手・松岡弘を"プロ野球界初のシンガーソングライター誕生!"と紹介しました。土田明人という本職が小学校の先生がレコードを出した時は"シンガーソングティーチャー登場"と書いています。またそれまでの「自作自演」という言い方なんかよりも、ちょうど「シンガーソングライター」という「自作自演」そのままの意味を持つ語感のいい言葉が定着したため、単純に「歌を作って歌う人」は全員「シンガー・ソングライター」、遡って、あの人も昔、歌を作って歌っていたから「シンガー・ソングライター」と言い出したものと考えられます。こうした訳もあって現在、前述した人物の殆どが、文献やネットで「シンガーソングライター第1号」「シンガーソングライターの草分け」等と紹介されています。先に挙げたように「シンガーソングライター」という言葉が使われ始めたのは昭和46年、昭和47年より後になってからのことで、これ以前に活躍した前述の加山雄三や荒木一郎、昭和35年代後半に登場した高石友也や岡林信康といったような人たちは、リアルタイムでは「シンガーソングライター」と呼ばれていて、のちにそう呼称されるようになりました。高石友也は「フォークシンガーです。と自己紹介すると『シンガーソングライターですよね』と聞き返されます。そんな大層なもんじゃないんですけど」と話しています。高石にとっては「シンガーソングライター」という呼ばれていて方には馴染みもなく違和感があるのか、あるいは、商業的に成功を手にした昭和45年代より後の「シンガーソングライター」たちは、自分たち「フォークシンガー」とは違うという意識があったのかもしれません。